2009年06月30日

地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結している

6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装を行った兵士が配置に就いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された[5]。
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その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心にした民主化要求をする学生を中心とした民衆に対して投入された。一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で争乱を繰り返す民衆に対して無差別に発砲した[6]他、装甲車で市民を轢き殺すなどして多数の民間人を死傷させた[7]。

この様な無差別な武力鎮圧は数時間に渡り行われ、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に中国人民解放軍の説得に応じて広場から退去した[8](また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた)。なお、学生運動の主立ったリーダー達の一部は武力突入前にからくも現場から撤収し、支援者らの手引により海外へ亡命した。

2009年06月12日

動的平衡(どうてきへいこう)とは物理学・化学等では

動的平衡(どうてきへいこう)とは物理学・化学等では、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態を言う。

系と外界とはやはり平衡状態にあるか、または完全に隔離されている(孤立系)かである。 なお、ミクロに見ると常に変化しているがマクロに見ると変化しない状態である、という言い方もできる。これにより他の分野でも動的平衡という言葉が拡大解釈されて使われるが、意味は正確には異なる。
可逆反応で、正反応と逆反応の速度が同じ場合には動的平衡となり、反応系を構成する各物質の濃度は変化しない(化学平衡)。また密閉容器の中に水と空気を入れておき、水蒸気が飽和蒸気圧に達すると、水の蒸発速度と水蒸気の凝縮速度が等しくなり、動的平衡に達する(相平衡)。熱平衡でも、実際には熱エネルギーはすべての方向へ全く同じように伝わっている、つまり動的平衡状態と考えることができる。

これらの例を構成する互いに反対の「流れ」は、一般にそのままでは観測することができない。ただし対象によっては分子を個別または定量的に見る方法で観測が可能である。一般には系を平衡からわずかにずらして、平衡に戻る過程を観察すれば流れとして観測できる。

応用:平衡定数と速度定数の関係 [編集]
一般の化学反応は非平衡過程であるから熱力学で記述できず、時間変化を扱う反応速度論の範疇にある。しかし可逆反応による動的平衡状態では熱力学と反応速度論の両方が適用でき、それぞれに基づく概念である平衡定数と速度定数との関係式を導くことができる。

可逆反応

A + B ? C + D
を考えると、正反応速度は
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学

v+ = k+[A][B]
逆反応速度は

v- = k-[C][D]
となる。ただしk+、k-はそれぞれ正反応、逆反応の速度定数で、[ ]は各成分の濃度(または分圧、活量)を表す。

動的平衡状態では両反応の速度が等しく

v+ = v-
となるので

k+[A][B] = k-[C][D]
平衡定数Kは

K = [C][D] / [A][B]
であるから、

K = k+ / k-
という関係式が導かれる。これは酸・塩基の解離平衡や生体高分子などの会合・解離にも適用できる。

他の意味 [編集]
動的平衡という用語は分野によっては、物理用語でいう平衡ではなく「定常状態」というべき場合に使うこともある。定常状態とは系が平衡状態にない外界と接している場合にのみ起こり、流れがあるが時間変化が見られない、すなわち系への出・入の速度が等しい状況をいう。

例えば、経済において資本のフローが一定であれば安定した市場が成立する。また生物(人)の出生率と死亡率が同じ場合には個体数(人口)は変化しない。経済学や生態学・人口学ではこれらの状況をそれぞれ動的平衡と呼んでいる。生物学でもエネルギーや物質の出入に関して動的平衡ということがある。

「ミクロに見ると常に変化しているがマクロに見ると変化しない」という点では、これらを動的平衡のアナロジーとして理解できる。しかしこれらは物理的な意味での動的平衡ではなく、外界は平衡状態にない。資本の出入り、生物の生死や物質の出入は系外との流れとして直接観測できる。従ってこれらは定常状態と見るのが適切である。

2009年06月08日

教育令と儒教主義への回帰

こうして始まった学制と修身科は一定の啓蒙的役割を果たしたが[14]、以下のようにいくつかの問題を抱えていた。

教育費の受益者負担 [15]
強制就学による労働力の喪失[14]
実生活を無視した教育 [12]
さらに、同時期、士族の反乱や自由民権運動により政治的緊張の高まっており、これに相まって、明治政府の欧米化政策に対して強い反発が表れるようになった[14]。 このような中で、もともと、「欧米化」により日本人としての精神が失われることに強い危機感を持っていた儒学者からは「教育の精神的よりどころを従来の儒学的思想に置くべきだ」との意見が噴出した[16]。

そうして、1879年(明治12年)に『教学聖旨』が提示されることとなる[15]。 これは、維新以来の欧米化政策に対する憂慮と、それによる古来からの儒教主義的道徳観にもとづく教育の確立という「時代の要望」であったともいえる[10]。 この文書は天皇による聖旨という形で書かれており、天皇という絶対的為政者の名によっておこなわれた最初の教育への介入文書となっているが[16]、 起草を担当したのは儒学者で天皇の侍講の元田永孚であった[16]。 しかし、天皇の名を使ったものであっただけに影響は大きく[17]、同年には早速、修身において翻訳書を使用禁止となった[18]。 そして、これ以降、日本の教育政策は知育重視から徳育重視の方針に転換することになる[15]。 この聖旨の具体的内容は、自由民権運動などの問題(風俗の乱れ[16])は維新以来の「教育が知育主義に走り道徳教育をないがしろにした」ことが原因と批判し[18]、 「仁義忠孝」を中心とした伝統的な儒教的な道徳教育を中心に教育を進めるべきであると主張するものであった[19]。 これはつまり、「列強を恐れすぎて近代化を急ぎすぎたので、これを修正しよう」というものであったが[18]、同時に特定の道徳観念を強制するものでもあった[20]。
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ただし、この教学聖旨に対しては開明派官僚の反対が相次いだ[21]。 例えば、伊藤博文は『教育議』(1879)の中で「風俗の乱れは欧米化によるものではなく、急激な社会構造の変化によるもの」であるとし[19]、 「科学的な知識教育こそがそのような問題を失くしていく方法だ」と主張した[17]。 これに対して、また、元田は『教育議附議』を提出し反論するがその意見は認められず[19]、同年従来の学制を廃止し『教育令』が公布された[12]。 なお、後の改正教育令と区別するため、この教育令を『自由教育令』と呼ぶこともある[19]。 その主な内容は「就学義務の緩和」や「学務委員の選挙による選出」など自由・放任主義を原則とするものであったが、道徳教育に関しては特に重視されたりすることなく従来と変わらないあつかいであった。

2009年04月24日

ヒッパルコス

ヒッパルコス(Hipparchus、ギリシャ語綴り ?ππαρχος、紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろ)は、古代ギリシアの天文学者。現代にすべてつながる46星座を決定した。

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著書が現存せず、どのような説を唱えたのかははっきりしない。トレミーの48星座とかみのけ座の合わせて49星座を決定したのもヒッパルコスだと言われるが、はっきりと分かっている業績は、46星座の決定のみである。

クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』で、最も引用回数の多いのがヒッパルコスであることから、天動説を含む古代の天文学体系を成立させたのはヒッパルコスであるという説がある。これは広く支持されているが、残念ながら決定的な証明がなされていない。

年周視差の精密測定を行うため1989年8月8日に打ち上げられた人工衛星は、彼の業績を称えヒッパルコス衛星と名付けられた。ヒッパルコス衛星は予定の静止軌道に乗ることには失敗したものの、1993年6月24日に運用停止するまでに多数の有用なデータを収集した。

主な業績
恒星を1等星から6等星までの6段階に分けた。これは若干形を変え、視等級として現代でも使われている。
三角法による測量を行った。
歳差による春分点移動を発見した。
メトン周期の改良。

2009年04月07日

保守・愛国

現在のカントリーは、音楽的には様々な価値観を取り入れて発展しているが、アーティストやファンの政治的スタンスや歌詞に込められた心情の面では保守的な部分が強い。 元々が開拓民の民謡から派生しているため、自分の家族や故郷の州や町、また田舎の素朴さ、暖かさ、荒々しさなどを愛し、カウボーイやレッドネックといった自分の田舎臭いキャラクターを誇りとし、それを主張する内容の歌詞が多く、その裏には東部や都会に対する対抗意識や反発も表現される。 そしてそれが更に大きくなると、パトリオティズム(Patriotism:愛国心)や国粋主義と結びつき、アメリカ的価値観やアメリカ的自由を推奨する形として現れる。 その代表曲が1980年代初頭にヒットしたリー・グリーンウッド(Lee Greenwood)の"God Bless The USA"である。

2001年の9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件以降、その保守傾向はますます強くなり、元軍人である父親を尊敬し、自身も軍事基地などで慰問コンサートを開くトビー・キース(Toby Keith)の"Courtesy of the Red, White and Blue (The Angry American)" や"American Soldier" 、イラク戦争開戦前後に、反戦派に対して「もう忘れたのかい? あの日の怒りと悲しみを・・・・・。」とアメリカ同時多発テロ事件を持ち出して戦争支持を主張するダリル・ウォーリー(Darryl Worley)の"Have You Forgotten? " などがリリースされ、それぞれ大ヒットとなる。

また同時期に、女性カントリー・トリオ、ディクシー・チックスのボーカル、ナタリー・メインズ(Natalie Maines)がコンサート中に、イラク戦争に絡みジョージ・W・ブッシュ大統領について「合衆国大統領が(私たちと同じ)テキサス出身である事を恥じる。」と発言したのが波紋を呼び、中西部から南部を中心に 全米の多くのラジオ局で彼女たちの曲が外され、カントリー・ファンや大統領支持派によるCDの不買・廃棄キャンペーンなどが行われ、ファンや業界の保守・愛国思想が露骨に現れた。 また、本人や関係者に対する嫌がらせや脅迫も相次ぎ、事実上 業界から干される格好となり、更に育児なども重なり、活動を一時的に停止する。 しかしながら2006年には、この騒動を綴ったドキュメンタリー映画『Shut Up & Sing (公式webサイト)』が公開され話題となり、また"Not Ready To Make Nice "「まだ(皆の望むような)よい子にはなれない。」というタイトルのシングル曲(MVの映像は、ナタリーが“異端審問”や“思想矯正手術”にかけられるイメージになっている。)を含めたアルバムも発表され、カントリー以外の音楽業界やリベラル派のファンの支持を受け、2007年のグラミー賞においては、最優秀アルバム賞を含む5冠を獲得して復活を遂げた。

ダンス [編集]
アメリカには、田舎、都会に限らず各地にカントリー・バーやホンキートンク(Honky-tonk)と呼ばれるナイトクラブが約5000軒以上存在し、それらのほとんどがダンス・フロアを設けており、カントリー・ダンスが盛んに踊られている。 その世界最大のものが、テキサス州フォートワースにあるBilly Bob's Texasである。ところが、カントリーがまだ民謡だった時代のフォークダンスはさておき、現行のカントリー・ダンスの歴史は意外に浅い。 一説には、大都会ヒューストンのバーでロデオマシーンに興じる若者の青春を描いたジョン・トラヴォルタ主演の映画、『アーバン・カウボーイ』(Urban Cowboy 1980年)が起源とも言われる。カントリー・ダンスは大まかに分けて、ラインダンスとツーステップの2種類がある
ラインダンス:フロアに整列し、一斉に同じステップを踏むダンス。コレオグラファーや有名ダンスインストラクターなどが創作した振りをステップシートにおこし、それが各地のディスコやナイトクラブ、ホンキートンクなどでそれぞれ広められる。 カウントや曲ごとに振り付けが決まっていて全員がほぼ同じ振りをする。カウントやステップ、あて曲などに地域差があるが、エレクトリック スライド(Electric Slide)やトゥシュ プシュ(Tush Push)などは世界中どこででも通用する有名なステップである。 大抵の場合、DJが曲中のMCで「さぁ?っ ホットなカウガールたちの為に次はヒップホップでいくぜっ! 次は"Men In Black"だっ!」というような感じで、次の曲のステップを予告する場合が多い。 1990年代に、ドワイト・ヨーカムの"Crazy Little Thing Called Love" のミュージック・ビデオとアパレルブランド、GAPのテレビCMが影響してか、ラインダンスが一世をふうびし、カントリーに限らず ビートの効いたヒップホップやロックスタイルのステップも流行したが、現在はかなり下火になっていてる。 しかし最近では、hpがiPodのテレビCMにラインダンスを登場させたり、シャナイア・トゥエインの"I Ain't No Quitter" や、マドンナの"Don't Tell Me"、ジェシカ・シンプソンの"These Boots are Made for Walkin" などをはじめとする多くの最新カントリーやポップス・ダンス系のミュージック・ビデオの中でラインダンスを踊るシーンを盛んに盛り込むなど、「ラインダンス・ブームが再燃するのでは」とのうわさもある。 また既出のカウボーイ・トロイ(Cowboy Troy)のように、MVの中で踊られているステップの“インストラクション動画”を公開しているアーティストもいる。
ツーステップ(Two-Step):男女のペアで踊るカップルダンスの一つ。
男女が「クイック、クイック、スロー、スロー」のリズムでダンスフロアをドーナツ状に時計回りし踊る、社交ダンスに似たもの。 このツーステップ以外にもワルツ、スウィング、チャチャ、ポルカ、チークダンス(Slow dance)、それにラインダンスのように振りやステップが決まってるカップルダンスなど、男女のペアで踊るダンスが現在の主流になっている。

天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

2009年03月23日

冷房機以外の改造点は1500系

1990年から1992年にかけて竣工した、基本的に阪急2000系を種車とするグループである。全車が阪急在籍中に冷房改造を受けているため、冷風吹き出し口にスイープファンは付いていない。

冷房機以外の改造点は1500系とほぼ同じであり、設置間隔が広い冷房室外機と送風ファンなしの冷房吹き出し口が同系列との相違点となっている。2100系からの編入車4両と2021系を種車とする4両も1500系に改造された同形式とは別形態になっている。

搬入当時の形式と編成は以下の通りである。

1750形(1750?1758)
CPを搭載する制御車。1753?1755はMGも搭載している。2100系からの編入車が2両存在する。
1730形(1730?1738)
パンタグラフと制御器を搭載する中間電動車。2100系からの編入車が1両存在する。
1780形(1780?1788)
SIVとCPを搭載する付随車。元2021系が4両存在する。
1700形(1700?1708)
パンタグラフと制御器を搭載する制御電動車。2100系からの編入車が1両存在する。
↓川西能勢口
1500系と同様に制御車―中間電動車―付随車―制御電動車の4両編成を組んで入線し、同系列よりも多い1750F?1758Fの9本が在籍した。先述の通り、中間車はすべて製造時から中間車車体である。ワンマン改造は1500系が完了した後最終的に8編成に施行された[31]。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

1997年から2000年まで存在していた6両編成の運用においては、ワンマン改造前だった1753Fを2両ずつに分割し、「1753-1733+1750F」および「1758F+1783-1703」という編成を組んでいた。このうち1783-1703については1758Fのワンマン改造後は連結相手が1757Fや1756Fに変更され、さらに1000系が2両廃車されて6連を組成すると余剰となり休車となった。そして、同年のダイヤ改正で6両運用が消滅すると分割前と同じ4両編成に復元され復帰している。なお、ごく一時期に1754Fを分割していた時期も存在していた。

その後、2003年のダイヤ改正で阪急車で運用される「特急日生エクスプレス」の増発に伴って4両編成の使用車両数が減少したことを受け、2004年に最後までワンマン改造未施工だった第1編成(1750F)が余剰となり廃車[32]された。現在、残る編成はすべてワンマン運転に対応している。

現在 [編集]
2008年7月現在、阪急線内には2050形1両、2071形5両、2171形7両の付随車のみの12両が在籍している。いずれも3000系・3100系の編成内に連結され、神戸・宝塚・伊丹の各線で使用されている。

また、2003年には2071系の2071形2086・2186が兵庫県広域防災センターに事故訓練用教材として譲渡された。2両とも元先頭車で、譲渡時に前面のみ先頭車仕様に復元されている。一種の保存であり、2800系を除く2000系列で初めての例となった。この2両は奇しくも2021系時代にユニットを組んでいたが、現在施設内では別々の場所に置かれている模様である。

一方、能勢電鉄には1500系・1700系合わせて4両編成13本、2両編成2本の計56両が在籍している。塗装は阪急時代が一貫してマルーンの単色塗装であったのに対し、能勢電鉄に入線してからは1500系入線時から「マルーンに窓周りクリーム」、1700系入線時から「オレンジに前面窓下と側面窓周りが緑」、1994年から「アイボリーにドア部分オレンジ」(1993年から試験期間として数種類の塗装が行われた中から採用)と比較的変化が多かった。しかしながら、2003年になって阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の再編から阪急電鉄との経営一体化が行われ、保守業務の効率化を図るため、一部の月検査や車輪転削に阪急平井車庫、全般/重要部検査に阪急正雀工場が使われることになった。これに合わせて塗装が再びマルーン一色に変更されている。

なお、ファン向けのイベントではマルーンに塗り替えられた車両の先頭に阪急時代の車両番号を掲出し、前面方向幕をシールで閉鎖して、展示や貸切列車の運転が行われることもある。

2009年03月07日

リーヒ (ミサイル巡洋艦)

リーヒ(USS Leahy, DLG/CG-16)は、アメリカ海軍のミサイル巡洋艦。リーヒ級ミサイル巡洋艦の1番艦。艦名はウィリアム・D・リーヒ海軍元帥に因んで命名された。

艦歴
リーヒは1959年12月3日にメイン州バスのバス鉄工所で起工し、1961年7月1日にモーリーン・マンスフィールド(モンタナ州選出上院議員、上院院内総務マイケル・J・マンスフィールドの妻)によって進水、1962年8月4日に初代艦長ロバート・L・ボーハン大佐の指揮下就役した。
王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

カリブ海での整調航海後、リーヒは1963年9月19日にボストンを出航し、サウスカロライナ州チャールストンに向かう。チャールストンでは第6巡洋艦駆逐艦艦隊指揮官のE・E・グリム少将がリーヒを旗艦に決定した。その後はジャクソンヴィル作戦海域で訓練を行い、11月に母港に帰港した後カリブ海での対空演習に参加する

1964年1月2日にリーヒは再びカリブ海に向かい、ミサイル訓練を2月26日まで行う。4月1日から10日まで揚陸演習「クイックキック V Quick Kick V」に参加し、6月1日に第6駆逐艦隊に配属された。

リーヒは第6艦隊と共にフォレスタル(USS Forrestal, CVA-59)の高速空母任務群に加わり、7月17日に出航し統合艦隊演習に参加する。演習「メランディックス - 64 MEDLANDEX-64」は、バレアレス諸島とサルデーニャの間で行われた。その後単艦での訓練を地中海東部で行った後、9月22日にイタリアのナポリを出航しNATOの合同演習「フォーレックス - 64 FALLEX-64」に参加する。10月26日にナポリに帰還し、11月には「プープデック - IV POOPDECK-IV」に参加、同演習は第60任務群の約40隻の艦艇と共にスペインの沖合で行われた。

リーヒは12月2日にスペインのバルセロナを補給のため出発し、12月14日に第6艦隊での32,750マイルの航行を達成した。12月22日にチャールストンに到着し、テリアミサイルの広範囲な評価試験を開始する。テストは翌年9月に完了する。その間の1965年4月28日から5月7日まで、ドミニカ共和国への攻撃および部隊支援任務に参加した。

リーヒは12月1日に地中海に向けてチャールストンを出航し、マヨルカ島でウィリアム・V・プラット(USS William V. Pratt, DLG-13)と任務を交代した。この二度目の第6艦隊配備期間にリーヒは地中海で対潜水艦、砲術および対空演習を行い、同様にNATO同盟国支援の艦艇戦術行動に従事した。

リーヒは1966年4月8日にチャールストンへ帰港する。6月から7月にかけて約60名の海軍兵学校生を乗艦させ、アナポリスから訓練巡航に出航し大西洋岸沿いおよびカリブ海の港を訪れた。その後リーヒは南アメリカ諸国との共同演習、「オペレーション・ユニタス VII operation UNITAS VII」に参加し指揮艦の役割を果たす。リーヒは9月前半にパナマ運河を通過し、10月後半にはマゼラン海峡を通過した。

共同演習は12月6日に完了し、リーヒは12月15日にチャールストンに帰還する。その後近代化改装のためフィラデルフィア海軍造船所に向かい1967年1月27日に到着、2月18日に予備役となる。一年以上にもわたる改装でリーヒは新たな対空、対潜水艦戦用の新型機材を装備した。1968年5月4日に再就役しそれらの機材の試験を行う。8月18日にフィラデルフィアを出航し、3日後に新たな母港のノーフォークに到着した。

リーヒは CG-16 に艦種変更された後、1993年10月1日に退役し、同日除籍された。2004年6月21日、ボーモント予備役艦隊入りするため牽引された。

2009年02月19日

アメリカ合衆国の歴史

北アメリカ大陸に最初に住んだ人々はアジア系のモンゴロイドである。氷河期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、凍結したベーリング海などを渡ってシベリアからアラスカを経由して広大な南北アメリカ大陸各地に分散していった。彼らは独自の文化を育んだが、農業などは行わず、もっぱら狩猟などで生活を営んでいたため、広大な土地に比べ、人口はごくわずかであった。酋長とよばれた長を中心とした村をつくって社会を形成したが、人口が少なく農業も行わなかったため、村同士で争いあうことも少なかった。これにより先住民による統一したアイデンティティは発生せず、北アメリカ大陸で独自の国家は遂に生まれなかった。なお1000年頃ノルマン人(ヴァイキング)が北米へ達し、アメリカを「発見」しているが、その後の植民地活動はすべて失敗している。今日に置いて彼等の活動は、認知されることとなったが、クリストファー・コロンブスほどの正当な評価を受けていない。
クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

近世まで北米には中南米に匹敵する文明が存在しないと思われていたが、近年発掘が進み、マウンド(土塁)群と呼ばれていた遺跡が、8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化の存在と確認された。そのうちもっとも大規模なものはイリノイ州セントルイス郊外のカホキアと呼ばれる大遺跡で、最盛期で1万人に達したとされている。この超巨大遺跡は、1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界遺産に登録された。

植民地時代 (1493-1776)
ピルグリムファーザー (N.Y.)イタリア半島を中心としたヨーロッパでルネサンスが花開いたこの時代、ポルトガルとスペインはいち早く遠洋航海技術を身に付け、大航海時代が幕をあけた。イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブスはスペイン女王の承諾を受け、大西洋周りによるアジア発見を志したが、1492年に西インド諸島を発見した。これに引き続き、英国人ジョン・カボットが北米大陸の東海岸を探検し英国が領有(ニューイングランド植民地)、フランス人ジャック・カルティエがセントローレンス川を遡ってフランスが領有化(カナダ植民地)するなど、西欧人による南北アメリカ大陸の探検と開拓がはじまった。

現在のアメリカ合衆国における植民地としての開発は、当初から多民族国家となる運命を辿るかの様な植民地活動が行なわれた。主となる民族はイギリス人とフランス人だが、ヴァージニアやカロライナにはイギリス人(ニューイングランド)が、ルイジアナにはフランス人が(フレンチルイジアナ)、ニューヨークやニュージャージーにはオランダ人(ニューネーデルラント)が、デラウェアにはスウェーデン人(ニュースウェーデン)が、フロリダにはスペイン人(ヌエバ・エスパーニャ)が、それぞれ思い思いに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を築いた。アメリカ東部には、すでに17世紀半ばに現在のアメリカ文化に繋がる欧米文化が移植されていたのである。

宗教的にも、当初の移民はカトリックであったが、16世紀に欧州でプロテスタント(新教徒)出現と宗教改革、続いて宗教戦争が起こると、ピューリタン(清教徒)による1620年の移民(メイフラワー号)をきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次いで入植し、先発のカトリックや先住民と敵対しながら勢力を伸ばした。1620年の移民は、現在でもアメリカの新教徒の間で偉業として称えられている。

西欧人は植民地で砂糖、コーヒー、綿花、タバコなどの農作物を農園で作り出したが、労働者の不足に悩まされた。西欧人はこれと同じ時期にアフリカ大陸の大西洋沿岸にも進出し、現地のアフリカ人有力者に住民の徴発を命じて、それを買い取り、南北アメリカ大陸に輸出した(奴隷貿易)。それと交換に進んだ火器や、当時進出していたインド産の木綿をアフリカ人有力者に売った。ただ、誤解が多くあるが、植民地時代の奴隷需要はカリブ海地域および中南米が圧倒的であり、北米への奴隷輸出は多くない。奴隷制度によって維持されるアメリカ南部の広大なプランテーション農業が盛んになったのは、19世紀に入ってからである。
(参考:黒人奴隷クンタの20年間 =「世界商品」の生産と黒人奴隷制度=)

英国からの植民団はニューイングランド植民地を建設したが、カナダに植民するフランスとの対立が生じ、17世紀から18世紀にかけて英仏がヨーロッパにおいて戦争をするたびに、植民地でも戦争が起こったため、一連の北米植民地戦争が続いた。この抗争は1700年のスペイン継承戦争によって端を発し、七年戦争・フレンチ・インディアン戦争によって英国が勝利する1763年まで続いたが、この戦争中に英国は次々とフランス・スペインの植民地を獲得、また南部に広がるスペイン植民地への奴隷専売権を得た。こうして英国は北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収め、イギリス海上帝国、つまり大英帝国の礎を築き上げた。

北米東海岸を一手に握った英国は、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大した。この段階で13州の植民地を建設し、州によっては白人の人口が先住民を上回る地域が生まれた。18世紀にはいると、寒冷で比較的農業に向いていなかった北東部で醸造、造船、運輸などの産業が発達し、英国本国の経済を圧迫するようになった。元々、新教徒が多数派を占める植民地とイギリス国教会の本国は軋轢があったが、この頃には精神的に本国と分離しており、経済的にも自立できる力を持っていた。

英国はかねてから「羊毛品法」や「鉄法」によって植民地での工業発展を妨げ、英国以外との独自貿易を禁じてきたが、ここで重商主義政策をしいてさらに圧迫した。また、フランスとの長い戦争中に自国軍の駐屯費や戦費を拠出するため、植民地住民に対して重税を課し、「印紙法」によって貿易独占を企てた。住民は反課税と印紙法廃止を主張して1765年に激しい反対運動を展開したため、英国は翌年これらを撤廃したが、「茶法」によって茶の貿易を独占しようとした。対して住民は1773年にボストン港を襲撃、ボストン茶会事件となった。

茶会事件に衝撃を受けた英国はボストン港を閉鎖、住民に対して強硬な姿勢を示した。ここにおいてアメリカ大陸13州の住民代表者はフィラデルフィアで史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めて英国に対して反抗、1775年4月、英国の駐屯兵と住民有志による民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)し、アメリカ独立戦争となった。住民代表者は第2次大陸会議を開催、ジョージ・ワシントンを戦争の総司令官に任命して大陸軍を結成、1776年7月4日の大陸会議において、トーマス・ジェファーソンが起草し、プロテスタント的思想を体現して近代民主主義の原点となったアメリカ独立宣言を発表した。

独立戦争と国家建設 (1776-1789)

アメリカ合衆国憲法への署名(Howard Chandler Christy・画)
ジョージ・ワシントン(1732年-1799年)アメリカ独立戦争はフランス、スペインの軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国エカチェリーナ2世皇帝は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結んだ。このために英国は外交的にも軍事的にも孤立、次第に劣勢は明らかとなり、1781年にヨークタウンの戦いで敗れると、独立容認を叫ぶ声が自国内でも高まり、1783年にアメリカに対してパリ条約を結んだ。これによって大陸13州は完全に独立し、ミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得した。

しかし13州合衆国はまだ緩やかな連合体に過ぎず、内外に対する政策は州ごとに異なって混乱をきたした。そこで強力な統一政府を作ろうという運動が起こり、1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催された。ここにおいて主権在民の共和制、三権(立法・司法・行政)分立、連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定され、現代に至るアメリカ合衆国(首都ニューヨーク)が誕生した。しかし、この憲法に対する批判運動が各州に起こり、憲法容認の連邦派と憲法反対の反連邦派が抗争を繰り返すこととなったが、これが後の政党となった。憲法に基づいた最初の大統領選挙によって、1789年、初代アメリカ合衆国大統領にジョージ・ワシントンが就任した。なお、日本語で大統領と訳されるプレジデントは、当時はアメリカ合衆国議会の前身である連合会議議長の肩書きとして使われていたものであり、執行権の無い親分的な意味合いしかないものだった。ワシントンは新しい共和国がヨーロッパの帝国の模倣にならないよう国王や皇帝との違いを表す為に、ミスタープレジデントという呼称を好み、最高執行権者となった大統領にそのような特別な権威がないことを印象付けさせたものである.[1] 。

西方への領土拡大 (1789-1861)
建国初期
1790年、首都がニューヨークからフィラデルフィアに移された。それでも南部住民の間には首都が北に偏りすぎているという批判があった。そのため、この年に当時の合衆国の中央部にあたるメリーランド州とバージニア州の州境にあるポトマック川流域に新首都を建設する事を決めた。1801年に新首都が完成して政府機関はこの地に移された。新首都はこの直前に死去した初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで「ワシントン市」と命名された。

米英戦争への道
1803年、ナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収したことにより、広大な西部の土地を得るだけでなく、西部に住む農民たちが国境ではなくなったミシシッピ川を物流路として自由に使えるようになった。

ルイジアナ買収の数週間後、ナポレオン・ボナパルト率いるフランスとイギリスは戦争状態に入った。合衆国は、ヨーロッパへの農産物の輸出によって得る外貨にたよる状態であった。アメリカは、中立の態度を取り、両陣営と両陣営の持つカリブ海沿いの植民地に対しての農産物や原材料輸出を行った。両陣営とも、利益になる場合の貿易は許可したが、不利益になる事に関しては拒んだ。

1805年、トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスの海上封鎖を実施した。またイギリスはアメリカの貿易政策に対しても緩い海上封鎖を実施し、報復を行った。

イギリスがアメリカ以外の国からの農産品輸入を当てにしないだろうと考えたアメリカ議会とジェファーソン大統領は、イギリスの海上封鎖解除を狙い、1807年に外国との貿易を停止した。しかし、イギリスは他からの農産物輸入に切り替えてしまう。アメリカの農産品輸出は大きな打撃を受けた。そこで1812年、イギリスがミシシッピ西部とカナダの先住民を支援していることを口実とし、南部と西部出身の議員が中心となりイギリスへの宣戦布告がなされ、米英戦争となった。

南部と西部の人達は、先住民の土地を得ることや農産物輸出の拡大を期待して、戦争を熱心に支援した。それに対して、北部の連邦主義者たちは戦争には反対であった。しかし、アメリカの初期の勝利でそれらの反戦論は霞んでいった。しかし、次第にアメリカにとって苦しい戦いとなり、1815年、ベルギーで締結されたガン条約により停戦となる。米英の領土は戦前に戻された。

この米英戦争中に欧州との関係が途絶え、経済的・文化的に孤立することとなったため、アメリカ人としての精神的自立を促した。これによってナショナリズムが高まり、保護関税を図って自国内の工業を発展させた。また、中南米諸国で独立運動が盛んに行われるようになると、モンロー大統領は1823年に欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱えるモンロー宣言を発表、これは後にモンロー主義となり、アメリカ大陸の孤立化(アメリカ合衆国の孤立主義)を図った。これはその後100年近く続くアメリカの孤立主義という外交方針となった。同時に中南米への政治的・軍事的介入を行うようになった。

1830年代、ジャクソン大統領は選挙権を拡大、民主政治が発達した。家柄にとらわれることなく政治家となることができた一方、大量に選挙人がいることは、被選挙人が大規模な選挙活動を行うこととなり、被選挙人が当選した際には活動協力者に役職を提供するなど、猟官制度が登場した。この政策に賛成する親ジャクソン派は民主党を、反ジャクソン派はホイッグ党を結成し、後の共和党となった。

ジャクソンの時代、アメリカも産業革命を迎え、鉄道や航路が発達し、国内市場が拡大した。また、工業などに従事する人口が少なかったことも、産業革命を全面的に受け入れる土壌となったので、1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んだ。労働者が大量に暮らす大都市圏が登場、企業経営を行う経営者や企業に出資する資本家が台頭し、資本主義社会となった。

領土の拡大とフロンティア
米英戦争によってヨーロッパ政治への介入に懲りたアメリカは、自国の領土拡大へ方針を転換した。1818年にイギリスと旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、スペインからは1819年に南部のフロリダを購入した。これによって1マイル四方に人口(白人人口)が2人以下という開拓前線、いわゆるフロンティアが誕生した。

米英戦争直後からアメリカ国民は大挙してルイジアナ植民地へ移住した。その中心はオハイオ川流域であったが、1840年ごろから太平洋沿岸の新天地オレゴンを目指すようになった。このオレゴンを目指す道はやがてオレゴン街道と呼ばれ、西部開拓が盛んになった。移民たちはインディアンなどに襲われないよう、幌馬車で隊列(コンボイ)を組んで移動した。

1844年に領土膨張主義を主張するポークが大統領に就任すると、翌1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合して領土は太平洋に到達した。また同年に英国と協定を結び、メキシコとの間で米墨戦争を行って勝利した。これによって1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1858年にさらにメキシコ北部を買収した。

1848年に旧メキシコ領カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、一攫千金を狙った多くのアメリカ人が移住した。いわゆるゴールド・ラッシュである。

時にインディアンや流れ者と戦いながら開拓し、生活用品は豊富な森林から自分で生み出すと言う移住者には、共通する開拓者精神、いわゆるフロンティア・スピリットが生まれ、これがアメリカ人としてのアイデンティティとなって現在まで受け継がれている。広大な西部は西欧人をひきつけ、アメリカの人口はイギリス植民地時代の旧移民の自然増加と、欧州からの新移民によって急増した。新移民の多くは英国人やドイツ人の農民、英国人の搾取に苦しむアイルランド人であった。このときに流入した白人の人口比は、現代アメリカ白人の人口比とほとんど変わっていない。

外政では、当時多くが西欧の植民地であった東南アジアに対抗して、まだ西欧諸国の手が伸びていなかった東アジアに対して積極的に強圧外交を行い、1800年代に大国清やその属国朝鮮に接近、1853年に日本に上陸し、翌年にこれを開国させることに成功した。だが、その後発生した南北戦争によって東アジア外交は一時滞ることとなる。

2009年02月03日

秋月(あきづき)氏

秋月(あきづき)氏は筑前国朝倉郡(現在の朝倉市)を本拠とした大身。大蔵党とも呼ばれ、田尻氏などと共に大蔵氏(阿知使主(後漢霊帝の子孫と称する)の後裔)。通し字は「種」
レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク

秋月氏の祖は、平安時代に伊予で反乱を起こした藤原純友を討伐した大蔵春実である。この功績により、春実は九州に所領を与えられ、大宰府の官人となって筑前に土着したと言われている。このことからもわかるように、秋月氏は少弐氏や大友氏よりも古い家柄であり、名族であったことがうかがえるであろう。

鎌倉時代
平安時代後期から九州に土着した松浦氏や蒲池氏など他の豪族と同じく秋月氏も平家の家人だったが、源平合戦においては源氏方に与したため、鎌倉幕府の鎮西御家人となった。しかし源頼朝からの信頼は薄く、頼朝の代官的意志を帯びて、鎮西御家人の抑えを含め守護として赴任してきた新参の少弐氏、島津氏、大友氏など東国御家人の傘下に置かれる。この平安時代に九州に土着し平家方となっていた武家と、鎌倉幕府の意向を帯びて下ってきた少弐、大友、島津との関係が、その後の九州での勢力構造を形成する。幕府の意向を帯びた少弐、大友、島津は九州の三大名となり、元平家方の武家はその勢力下に置かれることになる。

南北朝時代
南北朝時代においては、九州に敗走してきた足利尊氏を迎え撃った多々良浜の戦いに、菊池氏の傘下で阿蘇氏、蒲池氏などと共に南朝(宮)方として戦い敗れる。

戦国時代
戦国時代に入ると、少弐氏の家臣となったが、少弐氏が大内義隆と争って敗れたため、大内氏の家臣となる。1551年に義隆が家臣の陶晴賢に殺された後は、豊後の大友氏の家臣となった。しかし1557年、大内氏を滅ぼした毛利氏の勢力が北九州にまで進出してくると、当時の秋月氏の当主・秋月文種は大友氏から離反して毛利氏と手を結び、このため同年7月、文種は大友軍の猛攻に遭って討ち死にし、秋月氏は一時、滅亡してしまった。

豊臣時代
しかし文種の次男・秋月種実は毛利氏のもとに落ち延びて、やがて大友氏の衰退とともに再興を果たした。さらに島津義久と手を結んで大友氏に対して反抗し、一時期は筑前に六郡、筑後に四郡、豊前に一郡と推定36万石にも及ぶという広大な所領を築き上げ、秋月氏の最盛期を現出する。1587年、豊臣秀吉の九州征伐では島津氏に属して豊臣勢に抵抗したが、もとより豊臣秀吉の敵ではなく、種実は名器・『楢柴肩衝』を献上することで降伏は許されたが、日向国高鍋に移封された。

江戸時代
1600年の関ケ原の戦いで、種実の子・秋月種長は西軍に属して大垣城を守備していたが、9月15日の本戦で西軍が敗れると東軍に内応して大垣城にて反乱を起こし、木村由信らを殺害した。戦後、その功績を認められて徳川家康から所領を安堵され、その後の秋月氏は江戸時代を通じて、高鍋藩として存続した。ちなみに名君として名高い上杉鷹山は秋月氏の出身で上杉氏への養子縁組によって米沢藩主となった。

秋月氏歴代当主
秋月種雄
秋月種幸
秋月種家
秋月種頼
秋月種資
秋月種貞
秋月種高
秋月種顕
秋月種道
秋月種忠
秋月種氏
秋月種照
秋月種朝
秋月種時
秋月文種
秋月種実
秋月種長
秋月種春
秋月種信
秋月種政
秋月種弘
秋月種美
秋月種茂
秋月種徳
秋月種任
秋月種殷

秋月氏一族
秋月春種
高橋種冬
長野種信
高橋元種
田原親貫
上杉鷹山

系図
凡例 太線は実子、二重線は養子。太字は当主。

    大蔵氏
     ┃
     (略)
     ┃
    秋月種朝      
     ┃
     文種
     ┣━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
     晴種 種実 高橋種冬 元種 長野種信 
        ┣━━┳━━━┓     ┃
        種長 種至 高橋元種  種貞(秋月種貞)
        ?
        種貞 
        ┃
        種春(嫡孫)
        ┃
        種信
        ┣━━┳━━┓
        種政 種恒 種封(分知3000石) 
        ┃
        種美
        ┣━━━┳━━━━━━━━┳━━━━┓
        種茂 上杉治憲(鷹山) 相良晃長 中条信義 
        ┣━━━┓
        種徳 黒田長舒 
        ┃
        種任
        ┣━━┓
        種殷 種樹
        ?
        種樹
        ┣━━┓
        種繁 種英
        ┃  ┃
        種苞 種明
        ┃
        種久
        ┃
        種高(現当主)
┣━━┓
        種康 種浩

2009年01月20日

100%コットンなどのバライタ印画紙

100%コットンなどのバライタ印画紙、水彩紙を応用したプリンター用紙(デジタル用)などは独特の風合いがあり、黒や紙の白の発色、色合いはざまざまである。プリンターの高性能化に伴い、デジタルでのモノクロームプリントが多くなった。デジタル写真・デジタル化された写真においては、「カラー」から「モノクローム」への変換は容易である

カラー写真は1800年代に開発が始まった。初期のカラー実験では像を定着させることができず、更に退色し易かった。初期の高耐光性のカラー写真は1861年に物理学者・ジェームズ・クラーク・マックスウェルによって撮影された。

カラー写真は、スライドプロジェクタで使うための陽画の透過フィルムとして像を撮ることもできるし、陽画の焼き付けを作るためのカラー陰画を作ることもできる。自動プリント機器の登場によって、現在では後者が最も大衆的なフィルムである。

初期のカラー写真は、それぞれ異なるカラーフィルターレンズを前面に持った3つのカメラを使うものであった。この技法は暗室や画像処理工程に3系統の処理設備を必要としたので、実用化までにはいかなかった。ロシア人写真家・プロクジン=ゴルスキーは別の技法を開発した。3枚のカラー乾板を連続して素早く撮影する技法である。当時は必要な色に対する適当な感度をもつ乳剤が知られておらずカラーフィルムを製造することができなかったため、この技法が用いられた。しかし1900年代に入ると、H.W.フォーゲルのような化学者たちの活躍により、ついに赤と緑に適当である感度を持つ乳剤が発売された。フランス人のリュミエール兄弟によって発明された最初のカラーフィルムであるオートクローム(Autochrome Lumière)は1907年に市場に現れた。これは染料で染めたジャガイモでんぷんで作られた「スクリーン板」フィルターに基づいたもので、ドイツのアグフア・ゲバルトが1932年に類似のアグファカラー(Agfa Color)を発売するまでは市場における唯一のカラーフィルムだった。1935年、アメリカのコダックが3色乳剤を採用した最初の近代的なカラーフィルム(integrated tri-pack)であるコダクローム(Kodachrome)を発売し、1936年にはアグファのアグファカラーノイエが追従した。アグファカラーノイエのカラーカプラは、コダクロームのトライパック方式とは異なり、乳剤が層状になっており、フィルムの処理が大幅に簡略化されていた。コダクロームを除くほとんどの近代的カラーフィルムは、アグファカラーノイエの技術に基づいている。興味深い注釈として、コダクロームの開発者だったレオポルド・マンネスとレオポルド・ゴドウスキー・ジュニアはどちらも熟達した音楽家だった。また、ゴドウスキーはジョージ・ガーシュウィンの従兄弟であり、彼の父・レオポルド・ゴドフスキーは偉大なピアニストだった。インスタントカラーフィルムは1963年にポラロイドから発売された。

デジタル写真

デジタル写真は画像を電子データとして記録するためにCCDイメージセンサやCMOSイメージセンサといった固体撮像素子を用いる。携帯電話などにもデジタルカメラ機能が付いているものがある(カメラ付き携帯電話を参照)。デジタル写真を写真と認めない人もいる。ただし、デジタルカメラで捉えた像は見ることもプリントすることもできる。この10年でデジタルの自動露出・自動焦点カメラは一般に広まり、フィルムカメラよりも売れている。動画撮影や録音など、フィルムカメラにはない機能を持っている機種もある他、レンズ交換式デジタルカメラの開発・普及も進んでいる。中には中判カメラ(ブローニー)に相当するレンズ交換式デジタルカメラもある。

写真処理施設からの遠隔地で仕事をする新聞記者などのカメラマンにとって、テレビジョンとの競争が激化するにつれ、新聞に載せる画像を短い時間で送付しなければならなくなった。このために、遠隔地で仕事をする新聞記者達は、一時期は小型の写真現像セットと電話線で画像を送るための道具を持ち歩くのが当たり前で、大きな負担となった。1981年、ソニーが画像撮影にCCDを使い、フィルムを用いない最初のコンシューマ用カメラ「マビカ」を発表した。マビカは画像をディスクに保存し画像自体はテレビに表示するものであった。次いで1990年にコダックが初の市販デジタルカメラDCS100を発表した。その価格は業務用でもなければ手が出ないものであった。商業的なデジタル写真がこのとき生まれたのである。

写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)
写真の性質はフィルムとデジタルで異なるが、共通した観点が存在する。以下、観点を幾つかの性質に分けて紹介する。フィルムとデジタル、2つのフォーマットのどちらが優れているかという議論がある。しかし、全ての観点において一方がもう一方よりも優れているとは言えない。それ故、どちらのフォーマットもそれぞれ良さがあると言うべきだろう。

再現性
ここでの再現性は画質とほぼ同義であると考えていただきたい。写真の画質に関しては解像度とコントラスト(と色再現性)が格子と考えられる。写真の写りを判断する基準は多数あるが、分解能を挙げる。取りあえず、分解能は写真の像を成立させる構成要素の原因と考えてよいだろう。これについて、その写真が何個の画像セル(ピクセル)で構築されるかで計ろうとする試みがある。

フィルム写真とデジタル写真を比較するとき、フィルムを撮像素子の画素数に換算するとどの程度かと考えがちだが、何よりも先ず両者はあまりに異なる。最終的なプリントを鑑賞する場合、近接時の鑑賞に耐え得るのはフィルム写真ではないだろうか。「大伸ばしのプリントは近寄って眺めるものでない」と言う人もいるが、たとえば絵画を鑑賞する場合を考えると、古典絵画などは特に大型のものでも近接時の精細感のある描画に驚く場合もある。少なくとも、作品が大型であることが直接に、鑑賞において接近してはいけないことを意味することはない。フィルムとデジタルで分解能を比較をするのは容易でない。分解能の測定はさまざまな条件に依存する。フィルムの場合、フィルムの寸法・サイズ、粒状性などのフィルムの性能、用いたレンズの性能に依存する。フィルムにはピクセルが存在しないから、フィルムにピクセルが存在するものとして計測した分解能は目安に過ぎない。デジタルカメラではセンサー画像の補間に用いる画像処理アルゴリズム、センサフィルタのベイヤーパターン(Bayer pattern)の効果、記録画質などが関係する。加えて、デジタルカメラの撮像素子や表示装置の画素の配列は、規則正しい繰り返しパターンを持つため、モアレを生じる場合があるが、フィルムの感光粒子は不規則に並んでいるためこのような現象は起こらない。

35mmフィルムカメラで撮影した写真の解像度評価はまちまちである。例えば、10メガピクセルという評価がある[1]。より粒子の細かいフィルムを使うとこの数字は上がるし、低級の光学系の使用や劣悪な照明がこの数字を下げることもあり得る。この評価は2007年の最新鋭デジタルカメラは35mmフィルムカメラよりも優れているという評価を含意している。ただし、35mmフィルムは一般消費者向けのフォーマットである。プロ向けフィルムカメラとして中判カメラ、大判カメラがある。これらに先の数値を単純にあてがうと、2007年現在の最新鋭デジタルカメラより優れた分解能を持つことになる。具体的には、645のフィルム写真は約36メガピクセル、4×5インチは約130メガピクセルである。8×10インチは約540メガピクセルになる。しかし、20メガピクセルや7メガピクセルという評価もある[2]。単純に言えば、フィルムの解像度はフィルムの感度によって変わる。

高性能レンズを用い理想的な露出で撮影した現代の超微粒子白黒フィルムの分解能は、30メガピクセル以上のファイルサイズにおいて適当な細かさが得られる。一般消費者向け35mmカラーフィルムでは12メガピクセル以上に、安価な35mmフィルムカメラ(コンパクトカメラ)でも8メガピクセル以上に価し得る。
チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

画像の表示に用いる媒体も考慮に入れる必要がある。例えば、せいぜい2メガピクセル程度のものが主潮流であるテレビやコンピュータのディスプレイで写真を表示するのみであれば、ローエンドのデジタルカメラで出せる解像度でさえ十分と言える。4×6インチのプリントに出力する場合に限っても、デジタルとフィルムの間に知覚できる差はある。出力媒体が大きな広告版なのであれば、高い解像度をもった媒体か大きな判が必要になるだろう。